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ここではインプロやワークショップに関するさまざまな考えを書いています。

宇都宮でインプロワークショップをしてきました

先週の金曜日から日曜日までの三日間、宇都宮でDE:RESSAL-MANEのインプロ合宿をしてきました。もっちーとふたりでワークショップをして、インプロの幅を広げるにおいても深さを深めるにおいてもとっても豊かな時間になりました。

ワークショップはかなりバリエーション豊かにやったので感想はいろいろあるのだけど、個人的には「Give your partner a good time(相手にいい時間を与える)」というコンセプトの力強さと繊細さをすごく感じたことが印象に残っている。

相手にいい時間を与えあっている時のインプロはとにかく面白い。そこには即興でしか現れないような爆発的な力がある。しかし、何が相手にいい時間を与えるのかはすごく繊細。それは相手をよく見せようとすることかもしれないし、自分がやりたいことをやることかもしれないし、ただその場にいて反応することかもしれない。それは本当に分からない。

ただ、その中でも「正直である」ことの大事さはすごく感じた。自分を偽ってでも相手に合わせた方がいい時間を与えられるような気はするけれど、実際にはお互い苦しくなっていく。正直にやって、失敗して、そして学んでいくしかない。そういう姿自身が相手にいい時間を与えているなんてことも往々にしてある。

ルールやマニュアルにそってやる方がずっと簡単。相手に本当にいい時間を与えるのは難しい。でも、だからこそ価値がある。インプロはアートなのだと改めて思った。

インプロはコミュニケーション能力を高めるものか?

インプロはコミュニケーションをうまくするものというよりも、コミュニケーションがうまくいっていないことを笑い飛ばせるようになるものだと思う。そしてその結果としてよりオープンなコミュニケーションができるようになっていく。

コミュニケーションの失敗を恐れると、失敗しないコミュニケーションを取ろうとする。しかし、そうすること自体がコミュニケーションの失敗を招いてしまう。自意識過剰ではコミュニケーションはうまくいかない。

さらにはコミュニケーションの失敗を恐れるあまり、コミュニケーションが失敗しているのにそれを見ないようにしてしまう。上辺だけのやり取りをして、うまくコミュニケーションしているつもりにはなっているけれど、お互い少しずつ消耗している。

このような状態ではコミュニケーションが学ばれるはずなどない。失敗してもいいと思えるからこそ、いろいろ試すことができて、結果を見ることもできて、コミュニケーションは自然と学ばれていく。

高校の演劇部を対象にインプロワークショップをしてきました

金曜日・土曜日はれいこさんに誘われて、高校生と幼児が劇で一緒に遊ぶという活動のお手伝いをしてきました。

金曜日に演劇部の高校生にインプロワークショップをしたら、土曜日には幼児をお招きしてもう本番というタイトなスケジュール。しかしそれでも非常に豊かな時間となった。

高校生へのワークショップは演劇としてのインプロを体験してもらおうということで、ウォーミングアップをしたあとはずっとフリーシーンを行うというものになった。高校生がやりたいシーンを始めて、途中で困ったら僕がディレクションを入れてどうにかするということをひたすらやっていた。構成としてはかなりシンプルなワークショップだったけど、内容はすごく豊かだった。「こんなことやっていいのかなぁと思わずにやってごらん」と言ったら、本当に見たことないようなシーンが連発してとっても面白かった。

高校生たちはワークショップが始まる前はふわふわしていて大丈夫かなぁと思ったけど、いざワークショップが始まると集中し、そしてお互いがさりげなく助け合っていた。最近の若者の優しさというものをすごく感じたし、彼ら彼女らが本来持っている創造性も感じられる時間になった。同時に、指導者がそれらを扱うことの繊細さというものを考えたりもした。

土曜日の本番は、子どもの前でインプロを見せたり子どものインプロを見たのが久しぶりということもあり多くの発見があった。この日は親御さんも見ていたのだけど、大人が面白がるところと子どもが面白がるところは少し違っていた。大人はインプロをしてギリギリのところに立っている人を見るのが好きだし、失敗する瞬間をとても面白がるけど、子どもはそうでもない。キースも言っている通り、子どもの興味を引き付けるのはストーリーだった。

そもそも、子どもにとっては面白いストーリーと退屈なストーリーがあるだけで、それがうまくいっているとか失敗しているとかいう判断自体をしていないのではないかと思った。以前中学校でインプロショーをしたときに「お話しが始まったら続きが気になる」という当たり前のことを再発見したのだけど、それのもっと純粋な形を見たような気がした。

この日はれいこさんの巧みなファシリテーションもあり、子どもたちは劇遊びの中でどんどん物語を語っていた。そして物語を語る上ではこういった感性がとても大事なのだろうと思った。

僕は子どもの感性至上主義ではないので、別にそれが「いい」とか「わるい」とかいうことは思っていない。そもそも、子どもは「いい」「わるい」をつけていないという話なのに、大人がそれに「いい」「わるい」をつけるのは野暮というものだろう。ただ、そういう世界もあるのだなぁということは感じたし、自分もそういう世界に生きられるようにしたいなぁということは思った。

世界は広く、未知は様々な方向に広がっている。そして探求は続いていく。

学ぼうとするとかえって学べなくなる。いいものを作っていく中で全て学ぶことができる。

最近インプロのワークショップをするときは、ものづくりのワークショップのような健全さでやりたいと思っている。

インプロのワークショップは「自分を見つめる」といったコンセプトによって、ややもすると内向き後ろ向きになりやすい。「自分がインプロをできないのは家族との関係に問題があったからだ」といった「気づき」によって何かを学んだような気にはなるけれど、僕はそれはあまり意味がないことだと思っている。それは「できない理由」にはなるけれど、「できる理由」にはならない。

ものづくりのワークショップはその点すごく外向き前向きである。「自分はどうしていいものが作れないんだろう」と自分を探ったっていいものは作れるようにはならない。それよりも作品に向かって手を動かした方が(途中たくさん失敗しながらも)いいものは作れるし、その結果これまでの自分の枠組みに気づくことができる。そしてその気づきは気づくと同時に手放すことができる軽いものである。

自分探しをするのではなく、何かをするための自分の使い方を探す。自分の使い方を見つけた結果それまでの自分について気づくこともあるけれど、それはあくまでも結果であって、それ自体を目的にすると重くなってしまう。

そういう風に考えるようになってから、僕はインプロのワークショップをするのがかなり気楽になった。人に何かを気づかせようとするとどうしても重くなる。そうではなく、今ここにある現実をただ良くしようとすればいい。

悪いところを探すのではなく、良いところを探すのでもなく、ただ良いものにしていく。「褒めよう」とするのはあまり誠実な態度ではないと思うし、「気づかせよう」とするのもやっぱり誠実な態度ではないと思う。でも、ただ一緒にいいものを作っていこうとすれば誠実になれる。その結果何に気づくのか、もしくは気づかないかは相手の自由だ。

ワークショップはもともと「工房」という意味だったけれど、今では学びの場所という意味合いが強くなっているように思う。学びにフォーカスした方が学べるような気はするけれど、僕は案外そうでもないんじゃないかと思っている。学ぼうとするとかえって学べなくなる。いいものを作っていく中で全て学ぶことができる。

インプロを通して子供になること・大人になること

僕はインプロでも人生でも、昔は子供のようになることを目指していたけれど、今は大人になることを目指している。人は思ったよりもみんな未成熟で、だから何かに不満を抱えながら生きている。

「インプロの考え方はワークショップでは役に立つけれど、実生活では役に立たない」という話があるけれど、僕はこういう問題を立てること自体が問題だと思っている。なぜならそこには「それをやっても評価されないじゃないか」という考えがあるから。

僕はいいインプロバイザーとは相手が自分に何をしてくれるかを考える人ではなくて、自分が相手に何をできるかを考える人なのだと思っている。

だから相手から評価されるかどうかなんてことは抜きにして、ただ相手に貢献しようとすればいい。そして相手に貢献できているという実感があれば、たとえ評価されなくてもそれだけで満足することができる。

戦争は汚い大人が起こすものではなく、未熟な大人が起こすものなのだと思う。赤ちゃんは泣き声で相手を不快にすることによって自分の要求を通そうとする。その泣き声を銃声に変えたものが戦争なのだと思う。

「相手は自分に何かをしてくれるはずだ」と考えているから、思い通りにいかないときに不満を感じる。そしてその不満をまき散らすことによって自分の要求を通そうとする。これは赤ちゃんにとっては妥当な考え方だし、妥当な方法だと思う。しかしこれが全てではない。

大人になるということは、自分の要求を通すいろいろな方法を学ぶことであるし、そもそも「相手は自分に何かをしてくれるはずだ」という考えを捨てて貢献する喜びを発見していくことなのだと思う。

「もっとインプロがやりたくなるふりかえり」がいいふりかえり

前回「ディレクション」をテーマにワークショップをやって、その時にふりかえりを丁寧にするということを少しやってみたら、ディレクションとふりかえりは似ているということを思った。

その場でプレイヤーをインスパイアするのがディレクションで、あとから(自分を含む)プレイヤーをインスパイアするのがふりかえり。「ふりかえり」というといわゆる「反省」をしてしまいがちだけど、それが本当にインプロを良くしているのかは検討が必要だと思う。

例えば「自分がいかにインプロをうまくできないか」というふりかえりは、一見するとインプロを良くするための行為に見えるけれど、実際には自分が変わらないようするための行為だと思う。「自分はこれができない」と決めることで、自分が変わる可能性を遠ざけている。

他にも家族関係や学校教育といった大きな問題を持ち出すのも、そのほとんどは自分が変わらないようにするための方法だと思っている。家族関係や学校教育の問題を変えることは困難だから、それを持ち出すことによって今の自分を変えることも困難にしている。

最近はアドラー本(『嫌われる勇気』など)を読んだこともあって、あまり問題の原因を重視しなくなっている。「どうしてそれができないのか」について考えるのではなく、「どうしたらそれができるのか」を考えればいい。もちろんその過程で原因を知ることが必要ならすればいいけれど、原因を知ることで満足するのではなく、それをどう変えていくかが重要なのだと思っている。

インプロに限らず、ふりかえりをするときは「結局そのふりかえりは今ここにある現実を良くしているのか?」という視点が重要だと思う。今ここにある現実を良くしていない「気づきがありました」「これからに活かそうと思います」は、結局は「自分は変わりたくない」の変奏曲に過ぎない。

「私にはこういう過去があって……」と涙するようなドラマチックなふりかえりはその様子ほど人を変えない。それよりも、「あ、その手があったか!」とシンプルに前に進んでいくふりかえりの方が人は変わっていくと思っている。

安全な場所があってインスパイアされるものがあれば、人はそれをやってしまう。そうしているうちに人は自然と変わっていく。ふりかえりとはそういうサイクルを生み出すものなのだと思っている。だから今の僕は「もっとインプロがやりたくなるふりかえり」がいいふりかえりなのだと考えている。

インプロは理論としてはかなり深い話にすることもできる。しかし、実践にはいつも軽やかさを持っておきたい。軽やかさが深さを生み出すことがアートの面白さであり、人生の面白さだと僕は思っているから。

ワークショップにおける「批判しない」について

ワークショップでよく言われる「批判しない」ということは、単に批判的なことを言わないというだけではなく、本当に批判的な心を持たないことが大事なのだと思う。たとえ批判的なことを言わなくても、そこに批判的な心があればそれはどうしたって伝わってしまう。

本当は心の中で相手を批判しながら「いいですよー」と言うよりも、心から相手を受け入れながら「バカだなー!」と言えるほうが僕はずっと尊いことだと思う。そして自分が許せないと思っていることを本当に許している人がいれば、それだけで何かが変わっていく。

でもこれはあくまでも理想型だから、実際には常にそこを目指していく過程なのだと思う。「批判的な心があるのだから批判すればいい」と開き直る(実際には感情に囚われている)のではなく、「人を批判してはいけない」というルールに囚われるのでもなく、批判している心に気づいたらただそれを流していく。そうしているうちに自分がだんだんとクリアになっていく。

人はすぐに「どうすればいいのか」を知りたくなるけれど、それよりも「どうあればいいのか」を知ることの方が大事なのだと思う。それは一足飛びにはいかないもどかしい過程だけれど、そういう風にしか進んでいくことはできないし、僕はそういう風に進んでいる姿自体にある種の美しさを感じる。