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ここではインプロやワークショップに関するさまざまな考えを書いています。

インプロを通して子供になること・大人になること

僕はインプロでも人生でも、昔は子供のようになることを目指していたけれど、今は大人になることを目指している。人は思ったよりもみんな未成熟で、だから何かに不満を抱えながら生きている。

「インプロの考え方はワークショップでは役に立つけれど、実生活では役に立たない」という話があるけれど、僕はこういう問題を立てること自体が問題だと思っている。なぜならそこには「それをやっても評価されないじゃないか」という考えがあるから。

僕はいいインプロバイザーとは相手が自分に何をしてくれるかを考える人ではなくて、自分が相手に何をできるかを考える人なのだと思っている。

だから相手から評価されるかどうかなんてことは抜きにして、ただ相手に貢献しようとすればいい。そして相手に貢献できているという実感があれば、たとえ評価されなくてもそれだけで満足することができる。

戦争は汚い大人が起こすものではなく、未熟な大人が起こすものなのだと思う。赤ちゃんは泣き声で相手を不快にすることによって自分の要求を通そうとする。その泣き声を銃声に変えたものが戦争なのだと思う。

「相手は自分に何かをしてくれるはずだ」と考えているから、思い通りにいかないときに不満を感じる。そしてその不満をまき散らすことによって自分の要求を通そうとする。これは赤ちゃんにとっては妥当な考え方だし、妥当な方法だと思う。しかしこれが全てではない。

大人になるということは、自分の要求を通すいろいろな方法を学ぶことであるし、そもそも「相手は自分に何かをしてくれるはずだ」という考えを捨てて貢献する喜びを発見していくことなのだと思う。

「もっとインプロがやりたくなるふりかえり」がいいふりかえり

前回「ディレクション」をテーマにワークショップをやって、その時にふりかえりを丁寧にするということを少しやってみたら、ディレクションとふりかえりは似ているということを思った。

その場でプレイヤーをインスパイアするのがディレクションで、あとから(自分を含む)プレイヤーをインスパイアするのがふりかえり。「ふりかえり」というといわゆる「反省」をしてしまいがちだけど、それが本当にインプロを良くしているのかは検討が必要だと思う。

例えば「自分がいかにインプロをうまくできないか」というふりかえりは、一見するとインプロを良くするための行為に見えるけれど、実際には自分が変わらないようするための行為だと思う。「自分はこれができない」と決めることで、自分が変わる可能性を遠ざけている。

他にも家族関係や学校教育といった大きな問題を持ち出すのも、そのほとんどは自分が変わらないようにするための方法だと思っている。家族関係や学校教育の問題を変えることは困難だから、それを持ち出すことによって今の自分を変えることも困難にしている。

最近はアドラー本(『嫌われる勇気』など)を読んだこともあって、あまり問題の原因を重視しなくなっている。「どうしてそれができないのか」について考えるのではなく、「どうしたらそれができるのか」を考えればいい。もちろんその過程で原因を知ることが必要ならすればいいけれど、原因を知ることで満足するのではなく、それをどう変えていくかが重要なのだと思っている。

インプロに限らず、ふりかえりをするときは「結局そのふりかえりは今ここにある現実を良くしているのか?」という視点が重要だと思う。今ここにある現実を良くしていない「気づきがありました」「これからに活かそうと思います」は、結局は「自分は変わりたくない」の変奏曲に過ぎない。

「私にはこういう過去があって……」と涙するようなドラマチックなふりかえりはその様子ほど人を変えない。それよりも、「あ、その手があったか!」とシンプルに前に進んでいくふりかえりの方が人は変わっていくと思っている。

安全な場所があってインスパイアされるものがあれば、人はそれをやってしまう。そうしているうちに人は自然と変わっていく。ふりかえりとはそういうサイクルを生み出すものなのだと思っている。だから今の僕は「もっとインプロがやりたくなるふりかえり」がいいふりかえりなのだと考えている。

インプロは理論としてはかなり深い話にすることもできる。しかし、実践にはいつも軽やかさを持っておきたい。軽やかさが深さを生み出すことがアートの面白さであり、人生の面白さだと僕は思っているから。

ワークショップにおける「批判しない」について

ワークショップでよく言われる「批判しない」ということは、単に批判的なことを言わないというだけではなく、本当に批判的な心を持たないことが大事なのだと思う。たとえ批判的なことを言わなくても、そこに批判的な心があればそれはどうしたって伝わってしまう。

本当は心の中で相手を批判しながら「いいですよー」と言うよりも、心から相手を受け入れながら「バカだなー!」と言えるほうが僕はずっと尊いことだと思う。そして自分が許せないと思っていることを本当に許している人がいれば、それだけで何かが変わっていく。

でもこれはあくまでも理想型だから、実際には常にそこを目指していく過程なのだと思う。「批判的な心があるのだから批判すればいい」と開き直る(実際には感情に囚われている)のではなく、「人を批判してはいけない」というルールに囚われるのでもなく、批判している心に気づいたらただそれを流していく。そうしているうちに自分がだんだんとクリアになっていく。

人はすぐに「どうすればいいのか」を知りたくなるけれど、それよりも「どうあればいいのか」を知ることの方が大事なのだと思う。それは一足飛びにはいかないもどかしい過程だけれど、そういう風にしか進んでいくことはできないし、僕はそういう風に進んでいる姿自体にある種の美しさを感じる。

分からないからやらないのではなく、分からないからやってみる。

インプロをやっている人に「あなたはゲームとシーン、どちらをどれくらいやりたいですか?」と尋ねたら、おそらくほとんどの人は「シーンをたくさんやりたい」と答えると思う。しかし、「あなたはゲームとシーン、どちらをどれくらいやっていますか?」と尋ねたら、おそらくシーンの比率はぐっと下がって、実際はゲーム(およびゲーム的なシーン)をやっている時間の方が長いという人もかなり出てくるように思う。

このような現象が起きる理由は、やっぱり失敗に対する恐怖なのだろうと思う。

シーンの失敗は、本当にどうしていいのか分からなくなる時がある。だから、失敗しても安心な(むしろ失敗することが前提となっているような)ゲームをやってしまうという状態なのだと思う。

インプロでシーンをやるためには、失敗に対する認識を本当に変える必要があるのだと思う。

「本当にどうしていいのか分からなくなる時がある」からやらないのではなく、「本当にどうしていいのか分からなくなる時がある」からこそやる。

すでに分かっていることをやっても探究にはならない。分からないことを分かろうとするからこそ、そこには探究の可能性がある。失敗を避けるべきものとして捉えるのではなく、失敗を探究の機会として捉える。

そうすれば分からないことを発見するためにシーンをすることができるし、それで失敗してもそんなに落ち込まずに済むし、なんとなく流さずにも済む。

そして「なぜ失敗したのだろう?」と探究心を持ってふりかえることができれば、インプロは自然とうまくなっていく。

とはいえ、失敗に対する認識を変えることは身体的な学びだから、頭で理解してもすぐにできることではない。少しずつ少しずつ進んでいけばいい。その途中でもし苦しくなってしまったら、その時はただ楽しいだけのゲームでもいいから、それをして遊び心を思い出せばいい。遊び心と探究心は別のものではなく、むしろ遊び心こそ探究心の土台になっているのだから。

失敗について学ぶということは、学び方について学ぶということだと言える。だから何をしているのかよく分からなくなる時もある。でもさっきも書いたように、よく分からなくなる時があるからこそ探究しがいがあるのだと思う。

挑戦するとは自分で自分をダメにすることではなくて、舞台の上でできるだけいい状態でいること

僕はインプロをするときには挑戦することが大事だと思っているのだけど、同時にインプロには挑戦してる「ふり」もたくさんあるように思う。

やたらと難しいルールのゲームはその例で、これは一見すると挑戦しているような感じがするのだけど、実際にはルールを課すことで本当の挑戦である未知には進まないようにしているのだと思う。そこそこのところで失敗することで(失敗する「ふり」をすることで)笑いをとって安心しようとしているのだと思う。

挑戦するとは自分で自分をダメにすることではなくて、舞台の上でできるだけいい状態でいることなのだと思う。そうすれば自然と未知へと進んでいくことができるし、それでも失敗は起きるのだから人生は面白い。

自分をいい状態にしてあげる。パートナーをいい状態にしてあげる。そしてお客さんもいい状態にしてあげる。気楽に、失敗できるように、楽しめるように、面白がれるように、ワクワクするように、遊びたくなるように、ハメを外せるように、正直であれるように、余裕を持てるように、自由になれるように、ハッピーになれるようにしてあげる。

いいインプロとは「人生っていいな」と思えるものなのだと思う。そして毎日は続いていく。

キースのインプロは「失敗してもいい」ものではなく「失敗した方がいい」もの

キースのインプロは「失敗してもいい」ものではなく「失敗した方がいい」もの。失敗した方が面白いし、失敗した方が学べる。

自分のできる範囲で面白いことをやろうとしてもそれほど面白くはならない。挑戦していれば、奇跡が起きたり失敗したりして自然と面白くなる。

同じ失敗を100回繰り返す人はいない。失敗を繰り返せば挑戦だったことも当たり前にできるようになる。そしたらもっと挑戦する。

挑戦するためには意識的なチョイスが必要になる。未知に自分を放り込む感覚。でも自分は「自分」が思っているよりも賢いので、意外とできちゃったりする。し、できなかったらできなかったで面白い。

キースの言葉(例えば「Be average」)を挑戦しないための言い訳にしない。快適な領域で自然体でいられるのは当たり前。未知の領域で自然体でいてほしい。そうすれば未知の領域が開拓され、そこも快適な領域になる。

キースインプロの学び方は起業家の生き方と似ている。コンフォートゾーン(快適な領域)でうまくやらない。どんどん挑戦して、どんどん失敗して、そしてときどき何かが当たる、という生き方。

勉強するのではなく、探究する。何かをコツコツ積み重ねていくというよりも、何かにぶつかって自分という存在が変わる学び方であり、生き方。

「うつのみや春の演劇フェスティバル」に出演してきました

この前の土曜日は「うつのみや春の演劇フェスティバル」で演劇集団DE:RESインプロ研究室のゲストとして1時間のインプロショーに出演してきた。出演者はDE:RESのメンバー8人と僕を含むSAL-MANEの3人で合計11人。僕はディレクターをDE:RESのなぁさんと分担して行いつつ、プレイヤーとしても出演するという大忙しの1時間で、ひさびさにインプロをやってクタクタになった(笑)

ショーはとってもいいショーだった。プレイヤーは楽しんでいて、そしてチャレンジもしていた。そこにはインプロに対して真摯な姿があって、お客さんの反応もとても良かったと思う。

今回久しぶりにショーのディレクターをして思ったのは、「キースのインプロはよくできているなぁ」ということだった。キースのインプロはディレクターがいることが前提となることが多いのだけど、たしかに子供のようなプレイヤーと親のようなディレクターがいるとすごくいいショーになる。

今回DE:RESの出演者8人のうち、3人は初めてのインプロショーだった。他のメンバーにしてもインプロショーの経験数が多いわけではない。けれど、「初心者がいるからショーのクオリティーが低い」とか「経験者が集まっているからショーのクオリティーが高い」とか、そういう尺度ではない「よさ」がこの日のショーにはあった。

インプロショーでは普段90点の人が80点を出すよりも、普段60点の人が70点を出す方がずっといいショーだと感じられる。そして、ディレクター付きのショーはそういう状態をすごく作りやすいのだと思った。

一方で、この日のショーはディレクターがいないショーの難しさについても改めて考える機会になった。

SAL-MANEというチームは特定の指導者を持たない。また、最近は権力を分散させるようにしているので、僕もできるだけ口を出さないようにしている(これまでの経験上、僕がいろいろ言っても親の立場にはならなくて、「うるさい友達」の立場になるのであまりうまくいかない)。

DE:RESと比べるとSAL-MANEの方がインプロの経験は多いけれど、だからといっていいショーができるかというと「うまくいくこともあるけれど、思ったほどはうまくいかない」という実感がある。

親となるディレクターがいる場合、ショーの大枠はディレクターが作ってくれるし、チャレンジもさせてくれるし、いざとなったら助けてくれるという安心感もある。しかし、そのようなディレクターがいない場合はプレイヤーたちが率先して助け合って、チャレンジして、そしてショーを作っていく必要がある。

そしてそれは思ったよりも難しいことなのだということを、今回のショーを通して改めて発見した。(特に日本人はお互いを見合ってしまいがちなので難しいと思う。アメリカ人の場合はそれほどでもなく、そもそもディレクターの存在がほとんど無いのもある種必然だと言える。)

さらに言えば、これまでのSAL-MANEのショーはゲームやシーンごとにMCがあったので、交代でリーダー役を引き受けることができた。しかし最近はMCを入れない方法に挑戦しているので、本当にプレイヤーとしてショーを作っていく力が必要になるのだなぁと改めて実感している。